時空 解 さんの日記
2022
12月
17
(土)
08:51
本文
皆さんこんにちは、時空 解です。
この2年半、高校生が学ぶ「青チャート式数学」を60歳を超える年齢で学んでいます。
学生時代に学習を怠ったからですね。今になってやる羽目になっています。
まぁいまさらなんですけどね。
でもどうしていまさら学習をしているのかと申しますと、自分が生きている意味を物理の「実在の証明」とともに理解したいからなんです。
でも最近実感するのは
「生きている意味を今から理解したところで、もう余命は一日に換算すると夕暮のようなもんじゃないか」
と、そんな感もヒタヒタとするようになっています。
この歳になると「実在の証明」を記述するような数式を書く数学力を身に着けられそうにもありませんしね。
でも一つ。良い目標を思いつきました。
それは数学者「エヴァリスト・ガロア」の真似事です。
「遺言書に自分の理論を書くのはどうだろうか?」
と言う思い付きです。
まだ60代ですからね、遺言書の作成を考えるのは早いかもしれません。
寿命は100歳時代ともいわれ始めていますしね。
でも私は思うんです、ニュートンやアインシュタインが生まれる前から始まっている宗教ですが、それは現代数学や物理学のようには発展していないと思えるんです。(まぁ私は宗教家でもありませんから、本当のところはわかりませんが)
それに比べて、現代物理学の「物質の実在を求める」研究はどんどんと進んでいるのを感じます。
未来の物理学こそが、私が受け入れられる "宗教" なんだろうなぁ、と思うところがあるんです。
これは三十代の頃からの感覚で、きっと自身の宗教観でしょうね。
ですから自身の物理学理論の構想を遺言書にしたためることは、あながちズレたことではないように思えるんです。
葬儀はしなくてよい
肉体は自然葬で処置してよい
もし遺族が望むならば、望みどおりに葬儀・肉体の処置を行って構わない
若いころから「テクロ理論」なんて名をつけて、自分の存在意味を物理学的に考えていました。
高校生の時には二つのゼロを想定して宇宙の始まりを構築しようとしていました。
今では「無区別状態」から「空間と時間を認識するシステムと記憶」を獲得した部分が、すなわち生命であり、人間が認識している宇宙だと考えるようになっています。
これをなんとか数式で示したい。
他者が見て理解できる形にしたい。
「空間と時間を認識するシステム」を見つけ出したい。
その数式で物質の現象を予言できるようになって、実験で確認できれば本望なんです。でも「無区別状態」を数式にすることは今もできていません。
なので遺書・遺言書にしたためて遺族に残す程度が、今のところ出来そうなことなんです。
今日はそんなことを考えていました。
こんなことを考えるように成って、自分は歳を取ってきたかな…?
( 注意:自身が死ぬ予感を持っているわけでも、お医者さんから余命宣告を受けた訳でもありませんよ。( ^^; 誤解されませんように )
まぁそんなこんなで、今日も理数系の学習をできる範囲でやっている次第なんです。
では今日も1日の習慣を始めてます。小さな一歩・挑戦を試みています。
( ブログのコメント欄は 2022-04-16 に閉鎖いたしました )
この2年半、高校生が学ぶ「青チャート式数学」を60歳を超える年齢で学んでいます。
学生時代に学習を怠ったからですね。今になってやる羽目になっています。
まぁいまさらなんですけどね。
でもどうしていまさら学習をしているのかと申しますと、自分が生きている意味を物理の「実在の証明」とともに理解したいからなんです。
でも最近実感するのは
「生きている意味を今から理解したところで、もう余命は一日に換算すると夕暮のようなもんじゃないか」
と、そんな感もヒタヒタとするようになっています。
この歳になると「実在の証明」を記述するような数式を書く数学力を身に着けられそうにもありませんしね。
でも一つ。良い目標を思いつきました。
それは数学者「エヴァリスト・ガロア」の真似事です。
「遺言書に自分の理論を書くのはどうだろうか?」
と言う思い付きです。
まだ60代ですからね、遺言書の作成を考えるのは早いかもしれません。
寿命は100歳時代ともいわれ始めていますしね。
でも私は思うんです、ニュートンやアインシュタインが生まれる前から始まっている宗教ですが、それは現代数学や物理学のようには発展していないと思えるんです。(まぁ私は宗教家でもありませんから、本当のところはわかりませんが)
それに比べて、現代物理学の「物質の実在を求める」研究はどんどんと進んでいるのを感じます。
未来の物理学こそが、私が受け入れられる "宗教" なんだろうなぁ、と思うところがあるんです。
これは三十代の頃からの感覚で、きっと自身の宗教観でしょうね。
ですから自身の物理学理論の構想を遺言書にしたためることは、あながちズレたことではないように思えるんです。
葬儀はしなくてよい
肉体は自然葬で処置してよい
もし遺族が望むならば、望みどおりに葬儀・肉体の処置を行って構わない
若いころから「テクロ理論」なんて名をつけて、自分の存在意味を物理学的に考えていました。
高校生の時には二つのゼロを想定して宇宙の始まりを構築しようとしていました。
今では「無区別状態」から「空間と時間を認識するシステムと記憶」を獲得した部分が、すなわち生命であり、人間が認識している宇宙だと考えるようになっています。
これをなんとか数式で示したい。
他者が見て理解できる形にしたい。
「空間と時間を認識するシステム」を見つけ出したい。
その数式で物質の現象を予言できるようになって、実験で確認できれば本望なんです。でも「無区別状態」を数式にすることは今もできていません。
なので遺書・遺言書にしたためて遺族に残す程度が、今のところ出来そうなことなんです。
今日はそんなことを考えていました。
こんなことを考えるように成って、自分は歳を取ってきたかな…?
( 注意:自身が死ぬ予感を持っているわけでも、お医者さんから余命宣告を受けた訳でもありませんよ。( ^^; 誤解されませんように )
まぁそんなこんなで、今日も理数系の学習をできる範囲でやっている次第なんです。
では今日も1日の習慣を始めてます。小さな一歩・挑戦を試みています。
( ブログのコメント欄は 2022-04-16 に閉鎖いたしました )
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